さて、今回は私の半生を綴っていきたいと思います。
先に言っておきます。長いですw
覚悟してご覧ください<(_ _)>
掲題の通り、私はGID(性同一性障害)です。そして、不倫の間に生まれました。
私の父と母は結婚しておりません。
まぁ、両親の成り染めの内容は解りませんが・・・かぁちゃん曰く、「この人の子だったら産んでもいいかな」と思って産んだそうです。
適当だよね~www
父には他に家庭がありました。
それを知ったのは高校生の時だったし、「あ、そうなんだ~」って感じで、別に心を痛めることもなかったし、困ることもありませんでした。
経済的にはしっかり、私たち親子の面倒を見てくれたのでね・・・有難いものです。
父は会社の経営者で、幼少の頃は、あなたの父親は仕事で忙しくてなかなか家に帰って来られないのだ、と母から言い聞かせられていました。
他の家のお父さんは毎日帰ってくるし、少なくとも週に一回は帰ってくる。
でも、自分のお父さんは月に一回程度しか帰って来ない・・・。
小さい頃は大好きだったので、本当に寂しかったです。
運動会にも、忙しくて来られない時がありました。
そんな時は、手の空いている父の部下の人が変わりに来てくれていました。
とはいえ、私はその人と初対面。知らないおじさんなわけです。
その知らない初対面のおじさんに肩車してもらって競技に参加したりしていたのです。
ま~気まずかったよねwww
お父さんは忙しいのだから・・・仕方ないのだ、と思っていました。
幼稚園年長あたりになってからは、ファミコンなどの遊びを覚え、段々と父親がいなくても寂しさを感じる機会が少なくなっていきました。
ただ、この頃あたりから性に対する違和感を感じ始めていたと思います。
小学生の頃は塾に通わせてもらい、家庭教師までつけてもらっていました(別に私が願ったわけではありませんが)。
当然の如く成績は学年でトップでした。
その頃の父にしてみれば、私はさぞ自慢の子供だったことかと思います。そりゃ可愛かったことでしょう。
しかし、中学生になってから、私は勉強することをしなくなりました。
単なる反抗期・・・とは違ったと思います。
自分らしく生きていけていけないことに不満があって、それが募り募って形となって表れたのでしょう。
今になって思えば、性の違和感を解決することが出来ないことで、自分の将来に希望を見出せなかったのだと思います。
(別のクラスでなよなよしている男子が「オカマンベール」とか言われてバカにされているのを目の当たりにして、戦々恐々とした思い出があります。あぁ・・・こりゃなんとしてもバレるわけにはいかんなぁ、と感じました。)
将来に希望などないわけですから、そりゃ生きる気力もあまり出ません。
家に籠ってテレビゲームを淡々とするような日々を送るようになります。
次第に学校に行くことも嫌になり、中学2年生頃から登校拒否児となります。
今でも覚えています。
卒業するのに必要登校日数が足りない為、母が担任の先生に賄賂を贈っていたことを。
(担任の先生は学生時代相撲部だったそうで、相撲が大好きでした。そこで、父の提案で、大相撲の升席チケットを先生に渡したのです。)
そうしてなんとか高校に進学しました。
中高一貫のクラスで、一応進学クラスでしたが、相変わらず勉強はしませんでした。
この頃はゲームセンターに行くことが多くなり、学校が終わったら友達とゲーセンへ行くのが日課になっていました。
進学クラスなものですから、中には父親が医者だからと将来医者を目指す連中もいたりして(実際卒業後医者になった人は数名います)、我々ゲーセン通いの連中とは歴然とした成績の差がつく状態でした。
そんな私を、父親は不愉快に思っていたようです。
丁度、向こうのご家族の御長男のお子さんが、私と年齢が近く、どうやらとても優秀だったようで(全国模試で50位以内だったそうです)、直接言われたことはありませんでしたが、母の愚痴から察するに、要は父の孫と私の出来を父は比べて母親に文句を言っていたようです。
そりゃそうでしょう・・・幼稚園児、小学生の頃は、将来外交官になりたい、だとか、逸見政孝さんのようなアナウンサーになりたい、だなんて言っていた子供が、いつの間にか不良のようになってしまったわけですから。
それで一方的に母親のせいにするのもどうかと思うのですが・・・。
そんなことを耳にして、元々父親との間に溝を感じていた私は、益々父親に対する印象を悪くしていきました。
とはいえ、それ程家に帰ってくるわけでもありませんから、あまり気にしていませんでしたが・・・。
この頃は、父親のことを・・・たまに家に来るおじさん、という感じで捉えていました。
そんな父は、私が中学生位の頃から体を悪くしていました。
脳梗塞や心筋梗塞を併発し、手術も一度や二度ではありませんでした。
そして、私が高校2年生の終わりに差し掛かったあたりからだったかなぁ・・・父の面倒を我々親子で看ることになりました。
とは言え、主に面倒を看るのは母なわけですがね・・・。
一代で立派な会社を築き上げ、部下の人たちから「おやじ!」と慕われていたような人です。病気が原因とはいえ、体が不自由になり、思い通りにならない故に湧き出してしまうフラストレーションは想像がつきます。
そのはけ口が、母でした。
いつもすぐ傍で面倒を看る母に対して、父は兎に角当たるのです。
私とも顔を合わせれば肉垂れ口を叩いていましたが、母は傍にいるので、日常ず~っとそれが続くわけです。
夏休みの時だったと思います。
母が父を隣に乗せて運転している最中に事故を起こしました。
母の信号無視が原因でした。
多分、この時母は軽度の鬱状態になっていたのではないかと、今になると思います。
もうこの頃の父親は本当に嫌いでした。
さっさと死んでしまえばいいのに・・・そう思っていました。
学力は低いものの、なんとか私立の大学に一校だけ合格することが出来、私は一人暮らしを始めました。
この時は既に男として生きていく決心が決まっていました。
とはいえ、カワイイ格好をしている女子を見ると「自分の方が絶対に上手く着こなせるのになぁ・・・」などとライバル視していたことを覚えています。
一人暮らしをするようになったあたりから、父は母に対して当たることが少なくなりました。
自分の状況に適応出来るようになったからなのでしょうか。この頃から、父は笑顔が増えていったという記憶があります。
たまに実家に帰った際は「今日は豊が帰って来たから、お母さん、みんなで外に食べに行こう!」などと言って、食事に行き、ふざけた話や私の大学生活などの話題で賑やかな食事をしました。
この時の父親が、私の生涯の中で、一番素敵な父親でした。
今思い出しても、可愛らしい・・・守ってあげたい、という感じの父です。
大好きです。
私が大学2年生のある日、運転免許を取る為に通っていた教習所から実家に帰って来ると、家は誰もおらずがらんとしていました。
が、洗面所に行った時に戦慄が走りました。
大きな血だまりがあったのです。
すぐに理解出来ました。
父に何かあったのだと・・・。
取り敢えず、床に溜まった血を拭き、掃除を始め、その作業が終わる頃だったでしょうか、携帯電話が鳴りました。
母からでした。
父が、足を引っかけて転んだ際に、頭を床の硬い所にぶつけてしまい、その為に出血した、ということでした。
そして、最寄の病院に救急搬送されたので、付き添っている、とのことでした。
その日から、ヘルパーを雇い、ヘルパーさんと母が入れ代わり立ち代わりで父の入院中の世話をすることとなりました。
私は大学通学の為、程なくして大学近くのアパートに戻りました。
何度か面会に行ったことがありました。
が、以前の父に戻ってしまっていました。
いや、以前より物をはっきり言えないし、まるで子供のようで、以前より酷くなっていました。
そんな父を目にして、私は切なくなっていました。
父の入院生活は長くありませんでした。
半年も経たないうちに、向こうの家族に引き取られたのです。
そして、高額の養護老人ホームに入れられたのでした。
一度だけ、我々親子を良くしてくださっていた父の会社の人のお気遣いで、父と面会をする為に、その養護老人ホームに赴いたことがありました。
父は横になったまま、まともに言葉を発することが出来なくなっていました。
そして、私の顔を見るや否や、小さな子供のように泣き始めました。
そんな父を見て、私は慰めるように「親父は頑張りすぎたんだよな・・・仕事、一生懸命やりすぎたんだよな。」と言いましたが、それを聞いた父は、更に泣きじゃくりました。
そんな父を見て、悲しくはなりませんでした。
仕方ねぇなぁ・・・というのが、当時の気持ちです。
父と顔を合わせたのは、それが最後です。
それから間もなく、ある日母から電話がありました。
「お父さん、亡くなったってさ。」
母も、会社の人から連絡を受けたそうです。
当然、我々親子が、父の葬儀に参加することは出来ませんでした。
墓参りもしていません。
というか、何処に父の墓があるか、我々親子は知りません。
まぁ・・・本来のご家族がきちんと管理して下さっているのでしょうから、良いでしょう。
さて、父が他界し、親一人子一人の人生となりました。
この頃、私はある一人の女性と親密な関係になります。
その人は結婚している人で、年齢は私より7つ上でした。
とはいえ、旦那さんとは上手くいっていないようで、それを不憫に思った私は、別れさせ、学生専用アパートに管理人には無断で呼び出し、同棲生活を始めます。
勿論、親にも内緒です。
でも、今になって思えば・・・相手の何処を好きになったのか・・・よく解りません。単に、深い仲になったから、体を重ね合う関係になったから、ならばその人と結婚して、男として生涯きちんと生きていく、そういう覚悟を決めたかったのかなと・・・無理矢理にでも、それを男として生きていく為の理由にしたかったのかなと、思います。
そう考えると、彼女には本当に申し訳ないことをしたと思います。
同棲し始めて1年経った頃でしょうか、私は母に彼女を紹介しました。
母は何も言わず、快く受け入れてくれましたが・・・きっと心の中では不満に思っていたことでしょう。
私は大学をなんとか留年することなく卒業し(最初の1年でたった9単位しか取得せず、親の呼び出しも食らったりしましたが)、在学中に無事に内定も貰い、千葉県の松戸市での新たな生活を始めることになりました。
が、結局その会社は一年で退社し、結局実家に戻ることとなります。
勿論、ずっと彼女も一緒です。
職を何度か変え、その途中結婚もし、私が28歳の頃だったかと思います、中学の頃からの友人の父が経営している食品会社にお世話になることになりました。
が・・・私はここで鬱病を患います。
入社して2年目でした。
主な理由は、会社でのパワハラ、それと人間関係でした。
この会社では、辛い思い出や楽しい思い出、沢山がありました・・・。
入社時は、この会社にずっといるつもりでいましたので、退社を決める際も本当に悩みました。
が、入社から3年経つ前に、私は辞めることを決めました。
(どのようなパワハラだったか、またどのような人間関係の問題があったか等の詳細は、割愛させて頂きます。)
夜眠れない日々が続き、常に頭は朦朧とした状態。それでも元気に振る舞い、会社の人や家族に心配されないように過ごしていましたが・・・限界でした。
死にたい、と思うようになっていました。
会社を退社後、私は毎日ベッドで横になり、何もしない日々を送りました。
仲の良かった同僚の人や、仕事の繋がりで親しくなった人等からの連絡も、出ないようになっていました。
次の仕事も、探そうという気持ちになれませんでした。
何もやる気が起きないのです。
唯一、夕方になってからパソコンでニコニコ動画を観る、それだけしか出来ませんでした。
退社してから1か月程たった頃から、少し元気を取り戻せるようになり(精神科で処方された薬の影響もあったかもしれませんが)、朝も起きられるようになりました。
ですが、相変わらず仕事をしようとする気持ちになれず、次第に自分に対する価値を感じなくなっていきました。
奥さんに申し訳ない・・・かあちゃんに申し訳ない・・・
仕事もせず、ただ食べて寝るだけで、世間様にも申し訳ない・・・
こんな自分、生きていても意味が無い・・・
死んでしまえばいいのに・・・
過去に、父に対して思った感情が、自分に向けられたのです。
とはいえ、死にたい!という気持ちを周りに打ち明けることが出来ませんでした。
皆に心配させまい・・・という気持ちが、家族にすら相談出来ずな状態にしてしまったのです。
そしてある時、奥さんと口喧嘩をした際に、私は彼女に対して全力で暴力を振るってしまいました。
数発とは言え、格闘技経験のある私の攻撃で、彼女は体にあざを作ってしまいました。
その後、凄まじい後悔に襲われ、仏壇の前で膝を崩して泣いていた記憶が残っています。
本当に自分はどうしようもない・・・
これ程までに腐ってしまったのか・・・と、自分に失望し、私は死ぬことを決めました。
家内が家を留守にしている間に、睡眠薬を飲み、二階の押し入れに入り、頭にスーパーの袋をかぶり、首元を縛り、二酸化炭素中毒になるように、横になってその時が来るのをじっと待ちました。
(幼少の頃に観た、伊丹十三監督の映画「大病人」で覚えた自殺方法です。)
次第に息が苦しくなっていきました。
睡眠薬の量が少なかった(強い薬でもありませんでしたし、律儀にも死のうとする者が、医師の処方通りの量しか飲まなかったのでw)為か、なかなか眠くなりません。
苦しくて苦しくて、しかしそれと同時にだんだんと眠くなっていき(この眠さは二酸化炭素中毒によるものかもしれません)、それと同時に体中の血の気が引いていって、少し寒気がするのを感じました。
手先が変な感覚になっていき、頭が痛くなっていき、眠さに勝る程の苦しさと、死に対する恐怖が、私を押し入れから飛びさせました。
そして袋を破って大きく息を吸い込みました。
頭痛はまだ続いていました。
死ねませんでした。
情けなくて涙が流れていました。
ですが、この経験で、死ぬことって本当に大変なんだなぁ、ということを知ることが出来ました。
結局、私は死ぬことを諦めました。
だって、大変なんだもん。本当に・・・
苦しいし、怖いし、辛い・・・
あんな思いをするくらいならば、生きていた方が楽です。
それから更に1か月ほど経ち、私は大分元気を取り戻すようになりました。
死ねないのならば、なるようになるしかない。
そう考えた私は、まずは毎日楽しもう!と思い、パチンコ屋に足を運ぶようになります。
学生時代にのめりこんだ事もあったので、釘は読めるし、スロットも目押しが出来、知識も十分にありました。
当時はまだ期待値の高いパチンコ台、パチスロ台があったので、なんとか日銭を稼いでいくことが出来ました。
そんなのを、半年以上やっていたかなぁ・・・。
ただ、パチンコ業界も時代の変化を迎える時期にあり、勝ち辛くなる傾向になり始めた為、次第に将来への不安も募っていき、何か新しいことに挑戦しなければならない、と思うようになり始めていました。
そして手を出したのが、FXでした。
最初はかなりやられましたが・・・色んな取引スタイルを経験し、何とか日銭を稼げるようになりました。
が、この頃から奥さんと母親の仲が最悪になっていきました。
母は40で私を産みました。
そして、この頃母はもう70歳を超えていました。
とてもじゃありませんが、母を一人残すわけにはいきませんでした。
結果、私は彼女と離婚することを決めました。
今でも反省しています・・・二人の関係を悪化させたのは、紛れもなく、いい加減に生きていた私に原因があると・・・。
それから、私は直に、調理師になることを決意します。
奥さんから習って、趣味になっていた料理を、自分の仕事としよう、と思い立ったのです。
そうすることで、社会貢献も出来るだろうと・・・
調理師専門学校に入学したのは、翌年の春。
1年制の学校でしたので、久しぶりの学生生活はあっという間に過ぎていきました。
卒業後、とあるレストランに入社したのですが、3か月で辞めてしまい、私は人の紹介で居酒屋でバイトとして働くことになりました。
ここの社長さんとの出会いが、倫理法人会との出会いに繋がります。
私は、同じ系列のイタリアン居酒屋に移り、そこの店長さんと仲良く仕事をするようになり、1年後に正社員として雇って頂くこととなりました。
はっきり言って、仕事は大変でした。
月に休日は、基本4日。
一日の労働時間は、長いと14時間を超える時もありました。
ですが、学ぶことは多く、そこでの経験は、後に働くこととなるオカマバーでは存分に発揮することが出来ました。
大変でしたが、充実した日々を送ることが出来ていました。
貴重な期間であったと思います。
が、働きすぎもあったのでしょう・・・あるパート社員さんとのいざこざで、私は働く気力を失ってしまいました。
今思えば、別にその人が悪いわけではありません。(まったく悪くもないのですがw)
ただ、私の精神状態が弱っていただけなのだと思います。
店長候補として教え込まれていた私は、社長に何度も止められたのにも関わらず、退社を決意しました。
そして、結局またFX生活に戻ることとなりました。
毎日、家に籠って、ロンドンタイムからニューヨークタイムまでパソコンと睨めっこ。
スキャルピングを手法としていた私は、午後の3時から夜中の1時まで、平日はそんな生活を送るようになりました。
はっきり言って、辛かったです。
チャンスが来るまで、じ~・・・っと待つ。
テレビでも観ようものなら、そういう時に限って取引チャンスが発生したりするのです。
なんとか最初の1年目は乗り切り、それなりの収支を得る事もでき、翌年はもう少し取引額を大きくし、収益を増やそうと考えました。
そして2年目に突入。
相変わらず辛い日々が続きます。
(ちなみに、母親にカミングアウトをしたのは、この頃です。そして、お金を稼いで早く性転換手術をしよう!と心に誓ったのです。)
世の中のスキャルパーは、こんな生活をず~っと続けているのかぁ・・・よく耐えられるなぁ。
そんな風に感じていました。
そして2年目もほぼ終わり、12月を迎えました。
12月は、例年であれば、海外のトレーダーは休暇に入ってしまい、相場はそれ程動かないのですが、確かトランプ大統領が就任してから最初のクリスマスで、相場が荒れており、もの凄い動いていたのを覚えています。
そして、原油先物が高騰していたのを目にした私は、翌年に更に大きな取引をしようと考え、原油が下落することを想定して売り注文を入れました。原油価格が下落すれば、一年間に得た収益が倍増する位に、ガチでお金をぶち込んだのです。
しかし、私の思惑とは別に、原油は更に高くなっていきました。
何度かナンピン売りを追加しましたが、最終的にパンク。
一年間に稼ぎあげた収益はあっという間に水泡と化しました。
その1か月後、原油は下落していきましたw
やる気をなくした私は、もうチャートを見ることすらイヤになり、1か月程は何もやらないでいました。
あれは鬱状態だったんでしょう・・・多分、そうです。
それから、またパチンコ屋に行ったりし、ダラダラとした生活を送っていました。
どうやって生きて行こうかなぁ・・・そんな風に考えていました。
考えていながらも、そのまま結局5月を迎えることとなります。
このままじゃいけないなぁ・・・
次第に前向きに考えられるようになった私は、昔から憧れていたオカマバーで働くことを決意するようになりました。
どうせ腐るなら、年齢とか関係ない!やりたいことを全部やってから腐りきって野垂れ死にしたほうがいいや!
ってことで、早速ネットの求人サイト「newmo」で募集中のお店を探し、応募したのが、私が2020年2月まで働いていた、埼玉県富士見市にあるオカマバー「BAR1/2」だったのです。
ここでも、結局燃え尽き症候群をやらかしましてねwww
私の悪い癖、完璧主義者が本領発揮してしまって、それで頑張りすぎちゃったんだわねぇw
(;^ω^)
色々あってお店を辞めちゃいましたが、今でもたまぁにお客として飲みに行っているし、お手伝いにも行ったりしてんですよ♪
・・・最後の方は大雑把になっちゃったけど・・・伝わるかしら?
(オカマバーでの色々な思い出は、また別の機会にお話します♪)
ま、人生色々ですよ。
男もいろいろ。
女だっていろいろ。
そして、オカマだっていろいろよ♪www
そういったいろいろがあるからこそ、今最高に素晴らしい日々を送ることが出来ています。
別にね、不倫の間に産まれようが、オカマであろうが、
これからの未来をどう生きるかは、自分次第です!
過去のことなんて関係ないし、性別だとかもどうでもいいの!
自分の現状を受け入れ、そして自分を産んでくれた両親に感謝、自分を造られた神様にも感謝、日々起こる出来事にも感謝、ぜ~んぶに感謝!
そして、肯定的に前向きに生きていく!
自分がこういう家に生まれたから・・・こう育てられたから・・・
色々と御座いますでしょう。
ですが私は、だからなんなの?と思うわけです。
これからの未来は、自分で変えられるんです!
考え方ひとつです。生き方を変えるなんて・・・。
難しいのは百も承知です!
ですが、人は本当に、変わります。
実際、この私自身が、大いに変わりました。
本人の気持ち次第でいくらでも変えることは可能です。
今私は、多くの助けるべき人々を助けられるようになりたい!その気持ちを信念として生きています。
その根幹は、今まで散々迷惑と心配をかけてきた母への感謝と、その80歳を超えた母が、いつまでこの世で一緒にいてくれるかは解りませんが・・・生きている内に、一度だけでもいいから
「この子を産んで、本当に良かった」
そう母に思って貰えるようになりたい、そういった願いです。
私はまだまだ変わっていきます。
人々に伝えられるよう、努力を続けていきます。
そして、もっと世の中が素晴らしいものとなるよう、変えられるよう尽力していきます。
最後までみてくれて、ありがとう♪
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